はじめに
JR東日本が「駅カルテ」の販売を5月から開始すると発表した。駅カルテとはSuicaの統計情報がまとめられたレポートで、JR東日本によれば「プライバシーに十分配慮されている」とのことだ。一方でJR東日本のプライバシー関連の話題といえば、2013年、ユーザーの利用履歴を第三者である日立製作所へ提供していた件を想起させる。

そこで本記事では、JR東日本の過去のデータ活用や監視カメラなどの一連の「事件」をまとめてみようと思う。また、これらの事件に対する個人情報委員会や世間の反応もまとめていきたい。そしてこれからJR東日本と駅カルテがどこに向かうのか、予測してみる。
日立製作所へのデータ提供問題
2013年6月、JR東日本がSuicaの利用履歴のデータを日立製作所へ提供しようとしていたことが明らかになり、多くの利用者から「プライバシー保護の配慮に欠けている」という批判の声があがった。これを受けJR東日本は「Suicaに関するデータの社外への提供についての有識者会議」を開催。そして有識者会議が提出した「中間とりまとめ(2014年2月)」を受け、JR東日本は日立製作所へのデータ提供を中止。既に提供したSuica分析用データも日立製作所から抹消された。
上記までの流れをまとめると以下の通りになる。

この問題において重要になるのは、①JR東日本がどれだけプライバシーに配慮していたのかという点と、②利用者の不安を払拭できなかった点にある。興味深いのは、資料をみる限り、JR東日本はプライバシーの十分な配慮を行っており、かつ一貫した方針を見せているにもかかわらず、利用者の不安が払拭できなかったことだ。
まず、①「実際にJR東日本がどれだけプライバシーに配慮していたか」について解説する。「Suicaに関するデータの社外への提供について(2013年7月25日)」によると、JR東日本は日立製作所にデータ提供する際に、氏名と連絡先を削除しており、生年月日を生年月に変換した上で、Suica識別番号を不可逆の番号に変換している。これによって日立製作所がSuicaから個人情報を割り出すのは不可能となっている。
実際、当時の個人情報保護法が定義する個人情報は以下のようなものだった。
生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と容易に照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)
JR東日本が提供したデータの中には「氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの」が含まれていない。これを受けJR東日本は「本データが個人情報に該当しない」と判断したのだ。
しかし、利用者の答えは「NO」だった。 実際、有識者会議の中で一部の専門家から「Suicaデータを継続して提供すると、個人を特定できる可能性が出てくる」との声もあった。また、専門家の間でも個人情報の定義の解釈に幅がある。そうなると、一般人の中でプライバシー配慮に対する声が出るのも当然だった。
そしてJR東日本は、利用者に不安を与えてしまった原因として「利用者に対し十分な事前説明を行わなかったこと」を挙げている。それも間違いないが、これに対し総務省の平成29年版情報通信白書は「匿名加工されたパーソナルデータの利用に関するルールが不整備であった」と指摘している。
本問題の影響もあり、政府内ではビッグデータの利活用で様々な議論が進められた。そして2015年9月に改正個人情報保護法(以下、改正法)が公布された。改正法では「匿名加工情報」の規定が盛り込まれ、本問題における重要なポイントが改正されていた。
改正法が施行されて以降、JR東日本はSuicaの分析結果を自社業務に活用し、サービス向上を進めている。
顔認識カメラを用いた防犯対策
2021年9月、JR東日本が7月から顔認識カメラを用いて刑務所からの出所者と仮出所者の一部を検知する防犯対策を実施していることが報道された。読売新聞が2021年9月21日に報道して以降、各報道機関も一斉に報じ、インターネット上で大きな話題になった。
本問題の争点は、「出所者と仮出所者を検知する」という点にある。改正法では、前科は「要配慮個人情報」に含まれる。これは、本人に対する不当な差別が生じないように配慮されるべき情報のことで、犯罪歴、病歴が該当する。そして要配慮個人情報は、本人の同意を得ない取得を原則として禁止しており、オプトアウト手続(本人が反対しない限り、同意したとみなすこと)による第三者への提供も認められていない。
ただし、改正法第17条2項では「本人の利益のために必要がある場合や他の利益のためにやむを得ない場合等、あらかじめの本人の同意なく要配慮個人情報を取得できる」としている。つまり、今回のJR東日本の顔認識カメラを用いた防犯対策は、「他の利益のためにやむを得ない場合」に該当したということだ。
確かにJR東日本は、2021年7月6日に「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会に向けた鉄道セキュリティ向上の取り組みについて」で、顔認識カメラで不審者や指名手配犯を検知することを事前に発表していた。つまり、今回の顔認識カメラを用いた防犯対策は、東京オリンピックのセキュリティ向上という名目があり、公益に繋がるものだと考えられる。
ただし、7月の発表では「出所者と仮出所者の一部を検知する」と発表していなかった。要配慮個人情報でグレーな領域だったにも関わらずだ。しかも皮肉なことに、要配慮個人情報は、JR東日本の日立製作所へのデータ提供問題の影響を大きく受けた改正法によって定義されたものだ。それをJR東日本が分かっていないはずがなく、「出所者と仮出所者の一部を検知すること」を”あえて”発表しなかったと捉えるのが自然だろう。JR東日本は本報道を受け、出所者や仮出所者を検知対象から除外したという。
JR東日本はなぜ、本気で”副業”に取り組むのか?
そして今回、JR東日本がついに「駅カルテ」を販売する。これはつまり、Suicaの分析データが社外に提供されるということだ。これまで上記に挙げた通り、プライバシー関連で叩かれ続けたにもかかわらず、なぜJR東日本は「データ活用」という副業に取り組むのだろうか。
その背景には2008年3月に発表された「グループ経営ビジョン2020-挑む-」がある。本ビジョンは、鉄道事業がプロジェクトに長い時間を有することを踏まえ、10年、15年先を見据えた経営構想だ。この取り組みの一環として、サービス向上や駅付近の地域の活性化のために、Suicaデータを活用した情報分析サービスが検討された。検討の結果、Suicaデータが鉄道サービスの改善に活用できることが分かり、2013年4月に情報ビジネスセンターが立ち上げられた。
情報ビジネスセンターは主に、Suicaデータの情報分析サービスが実施されている。Suicaデータを分析する際は、Suicaデータの中の氏名や電話番号のデータは削除されており、生年月日も生年月に変換されている。そして情報分析サービスの最終成果物が、日立製作所へのデータ提供だったのだ。それからは先ほど述べた通りだ。
そして2021年1月、JR東日本は経営ビジョンとして「変革2027」を発表した。本ビジョンによれば、JR東日本が発足されてから30年間は、「鉄道のインフラを起点としたサービス提供」のフェイズだったという。しかしこれからの10年間は「新たな価値の創造」「価値創造ストーリー」をテーマにするとのことだ。具体的には、生活サービスやSuica事業を拡大させることで収益力を向上させるとしている。そして2027年度までに「鉄道事業」と「生活サービス、IT・Suica事業」の営業収益割合を「6:4」にするそうだ。それが達成されれば、副業が本業に置き換わる可能性も十分出てくる。
ここで考えられる疑問は、「なぜJR東日本がデータ事業に手を出すのか」だ。これは「チャンスがあるから」という理由だけで説明できるものではない。JR東日本がデータ事業に手を出す理由は、人口減少による移動ニーズの減少だと見ていい。実際には人口減少だけでなく、自動運転技術の進化やMaaS(Mobility as a Service)の登場、eVTOL(電動垂直離着陸機)、働き方の変化(リモートワーク)なども、鉄道での移動ニーズの減少に繋がるだろう。鉄道での移動ニーズが減少すれば当然、鉄道事業の収益性は落ちるだけだ。
人口減少については、特に東北地方が著しく変化すると予測されている。国立社会保障・人口問題研究所の「日本の地域別将来推計人口(平成30年度)」によれば、東北地方の人口は2040年までに3割近く減少するそうだ。JR東日本は東北地方の鉄道事業も担当しているため、3割近くの人口減少は大ダメージだろう。
つまり、「鉄道事業にフォーカスしたままではJR東日本に未来がない」ということだ。鉄道事業だけで利益を増やし続けることは極めて難しくなる。そうなると当然、何かしらの「価値の創造」が必要になる。その中で最も可能性の高い領域としてデータ活用やサービス提供が検討されたと考えていいだろう。
駅カルテの概要とメリット・デメリットを紹介
2022年5月から駅カルテの販売が開始される。駅カルテはJR東日本の首都圏約600駅の各駅の利用状況が定型レポートとしてまとめられている。駅ごとのSuica利用者数を時間帯別・性別・年代別で表示することが可能だ。
そしてもちろん、プライバシーの配慮が徹底されていて、『駅カルテ』では3つの処理を施しているという。
①非特定化処理、②集計処理、③秘匿処理だ。
非特定化処理は、特定の個人を識別できる情報の削除や、データの変換が行われる。Suica ID番号は変換番号に変換され、生年月日は生年月になる。個人を特定できる氏名や電話番号は削除。ただし、性別や利用駅はそのまま用いられる。このようにして、Suica元データを駅カルテ用分析データに加工することで、個人を特定できないようにしているのだ。
これは「仮名加工情報」の一つだと考えられる。駅カルテの仮名加工情報について考察した記事はこちらから。
次に、集計処理では、まるめ処理(端数処理)が実施される。つまり、駅利用者数の四捨五入や切り上げが実施されるのだ。駅カルテの場合、駅利用者の年齢は年代(10歳刻み)に、駅利用時間は1時間単位にまるめ処理が施される。それに加え、駅利用者数は1か月間を通じた1日あたりの平均(平日、休日別)で集計される。そして50単位で表示され、30人以上80人未満の場合は50人、80人以上130人未満の場合は100人と表示される。
最後に秘匿処理では、1日あたりの平均利用者数が100人未満の駅のデータが削除される。これはシンプルに、母数が少ないことによって個人を特定される可能性を排除したものだろう。
そしてさらに、Suica利用者は除外手続きを申請することができる。除外手続きを申請すれば、申請者の全データが駅カルテから削除される。このようにして駅カルテは、プライバシー配慮を充実させている。そして前回の事件の反省を踏まえ、駅カルテの詳細は事前に発表された。
駅カルテのメリットとしては、事業者目線だと、マーケティングに活用しやすいことが挙げられる。駅カルテを利用すれば、「どの駅にどのような人がどの時間に利用したか」が分かるため、店舗・商品展開の参考にしやすい。飲食店やコンビニ、アパレルなどの小売事業にとって、駅カルテのデータは非常に重要な要素となる。また、このようにして駅付近での効率的な開発が進むようになれば、街づくり活性化にも繋がる。
デメリットとしては、やはり個人情報を完全に保護できるわけではないことが挙げられる。「100%保護する」ということを証明するのは極めて難しいことで、駅カルテでも同じことが言える。それに加えそもそも、Suicaがスキミングされる可能性もゼロではない。JR東日本が提供するクレジットカード「ビューカード」を経由して個人情報が抜き取られることもあるだろう。駅カルテだけではなく、Suica自体から個人情報が抜き取られる可能性もあるのだ。
そして、JR東日本としても、これまで以上にプライバシー保護にリソースを使う必要がある。もし仮に個人情報が漏れてしまえば、JR東日本のブランド価値や信頼が著しく低下することになるからだ。ビッグデータは金脈であると同時に、それなりの代償となるプレッシャーがある。
駅カルテはどこに向かうのか
今後、駅カルテはどこに向かっていくのだろうか。『変革2027』を見る限り、データ活用を進めることで、安全な生活インフラを形成し、「心豊かな生活」を目標に挙げているようだ。JR東日本としては、多くの事業者にとって駅カルテが必要不可欠になるぐらい、駅カルテをどんどん販売したいところだろう。駅カルテが必要不可欠な存在になる頃には、JR東日本のデータ活用の信頼性も上がり、自由にデータ事業を進められる可能性が高まる。
データ事業が自由になれば、決済情報も取り扱いやすくなる。交通系ICカードを用いて決済する機会は未だに多い。実際に、ほとんどの小売店が交通系ICカードに対応している。その決済情報を販売できるようになれば、収益性も高まるだろう。
また、JR東日本としては、交通プラットフォームの決済手段としてSuicaを普及させたいように思える。これから自動運転技術が進むようになれば無人タクシーが普及するようになる。また、都市間移動において非常に有効なeVTOLを用いたサービスも開始される見込みだ。このようにして、交通手段が多様化される流れになりつつあるが、その決済手段としてSuicaを普及させるのだ。もし、交通手段の全ての決済がSuicaで実施できるようになれば、人々の移動データの全てを保有することが可能になる。そうなってしまえば、JR東日本が持つビッグデータに凄まじい価値がつくようになる。少なくとも、交通プラットフォームの決済手段に最も近いポジションにあるのはSuicaだろう。
そして駅カルテは国内事業者だけでなく、海外事業者への販売も実施されるだろう。海外事業者にとって、日本の土地感覚が一発で分かる駅カルテには、非常に大きな価値がある。そしてJR東日本にとって、データ事業は数少ない海外進出のチャンスだ。
JR東日本がデータ事業で収益性を高めるには、データ販売は避けては通れない道になり、駅カルテはデータ販売の道を切り開く武器になる。そしてデータの価値を高めるために決済情報も取り扱うようになり、Suicaを交通プラットフォームの決済手段として普及させることで、移動データの網羅性を高める。さらに、データをグローバルに販売することで、JR東日本にとっての新たな顧客も生まれるだろう。このようにしてデータ事業を軸にした収益基盤が完成されるのではないだろうか。
まとめ
- プライバシーの配慮を利用者に納得してもらうのは難しい
- 駅カルテは各駅の利用データをまとめたもの
- JR東日本はデータ事業を中心とした新たな収益源を求めている
参考文献
Suica に関するデータの社外への提供について 中間とりまとめ