はじめに
昨今、「Web3」は注目を集めている。Web3とは、ブロックチェーン技術を用いた分散型ネットワークを活用したサービス等の総称を指す。詳細は解説はWeb3の解説記事に一任するが、これは双方向的なネットワークであるWeb2.0が生み出した中央集権的なビッグテックに対するカウンターだと見られている。
このWeb3の中で、少し気になる動向がある。Web3に取り組む企業のセキュリティ強化だ。
データの安全性担保は難しい。その中で注目を集めているのが、「MPC鍵管理」という手法だ。この記事ではMPC鍵管理に関する技術の詳細は省くが、この技術に取り組むスタートアップが、いわゆるWeb3企業に買収されたのだ。それも複数回。
そこで今回は、Web3関連企業はどのような目的でMPC鍵管理企業を買収しているのか、考察してみたいと思う。
Web3とMPC鍵管理スタートアップの買収
Web3関連企業によるMPC鍵管理スタートアップの買収は以下の通りだ。

それぞれ詳しくみてみよう。
PayPalがCurvを買収
2021年3月8日、PayPalがCurvの買収に合意したことを発表した。
PayPal(カリフォルニア州)は、1998年に設立された決済企業だ。現在、世間を騒がせているElon Muskが創業者であることでも知られている。PayPalは、サービス内のアカウントを通して送金・決済できるのが魅力だ。PayPalが仲介するため、送金者は口座情報やクレジットカード番号を知らせることなく、対象者に送金することができる。また、インターネット上にあるサービスのため、国際送金が手軽にできるのもメリットだ。
そしてPayPalは2020年10月21日に、PayPalアカウントで暗号通貨の購入・保有・売却ができるサービスを開始した。この際、デジタル通貨に焦点を当てたチームが組織されたのだが、そこにCurvが加わるという形とのことだ。
Curv(イスラエル)は、CEOのItay MalingerとCTOのDan Yadlinによって2018年に設立された企業だ。MPC技術で世界的に信頼されている企業の一つで、クラウドベースのMPCウォレットを提供している。また、この類の企業として世界初のSOC2 Type1認定を取得した企業でもある。
SOC2(Service Organization Control Type2)とは、米国公認会計士協会が開発したサイバーセキュリティ・コンプライアンス・フレームワークのことで、高水準のデータセキュリティであるかどうかが評価される。そしてさらにSOC2の中でも、Type1とType2がある。Type1は「ある一日」について評価され、Type2は「一定の期間(半年以上)」について評価されるため、Type2の方が取得難易度が高いとされている。
以上のことからも、Curvは世界的に信頼されているMPC企業であることは間違いなさそうだ。
そして今回の買収について、PayPalのデジタル通貨担当副社長兼ゼネラルマネージャーであるJose Fernandez da Ponteは「Curvの買収は、より包括的な金融システムのためのビジョンを実現するための人材と技術に投資する我々の努力の一部です」とコメント。
また、CurvのCEOのItay Malingerは「デジタル資産の導入が加速している今、イノベーションの旅を続けるにはPayPalほど最適な拠点はないと感じています。私たちは、PayPalと共に共に、これらの資産が世界経済で果たす役割を拡大することに興奮しています」とコメントした。
ちなみに、今回の買収の財務条件は明らかにされていない。
GeminiがShard Xを買収
2021年6月9日、GeminiがShard Xの買収を発表した。Gemini(ニューヨーク州)は、Tyler WinklevossとCameron Winklevossの兄弟によって2015年に設立された暗号通貨取引企業だ。
2010年に公開された映画『ソーシャル・ネットワーク』に彼らは登場している。この映画によると、Winklevoss兄弟はMark Zackerbergに学生専用SNSのアイデアを持ちかけており、それがきっかけでFacebookが生まれたようだ。それに対して、Winklevoss兄弟は「アイデアを盗まれた」としてZackerbergを訴え、その和解金として6,500万ドルを獲得し、その一部を使ってビットコインに投資する。そして2015年にGeminiを設立し、現在はCoinbaseと並ぶ世界最大の暗号通貨取引所の一つとなっている。
また、2021年6月時点で、Geminiは300億ドル以上の暗号通貨をカストディ(管理・保管業務)していた。そこでセキュリティを強化するために、Shard Xを買収したという流れになる。
一方でShard X(イギリス)は、Yaniv Neu-Ner(現CEO)、Nikita Lesnikov(現CTO)、Navaho De Wetによって2018年に設立された企業だ。Shard XのMPC技術は、完全な秘密鍵を再構築することなく、分散署名プロトコルで使用される鍵断片を生成する。そして、ハードウェア・セキュリティ・モジュールなどの高セキュリティ環境で動作することを目的としたポータブルなMPCの実装を開発している。
今回の買収により、Geminiは顧客資産の移転スピード大幅向上と、プラットフォーム上での新規資産のリストアップなどのサービスを提供するそうだ。
CoinbaseがUnbound Securityを買収
2021年11月30日、大手暗号通貨取引所であるCoinbaseがMPC技術企業のUnbound Securityを買収したことを発表した。
Coinbase(カリフォルニア州)は2012年に、現在もCEOを務めるBrian Armstrongと、同じく取締役を務めるFred Ehrsamによって設立された企業だ。2022年11月現在は、100か国以上の約1.1億人がCoinbaseを利用しており、四半期ベースの取引高は1,590億ドルとなっている。その規模を見ても、世界最大級の暗号通貨取引所の一つであることが容易にわかる。
Coinbaseの近年のトピックは、2021年4月14日の米ナスダック市場への直接上場だろう。最近やたらと物議を醸すSPAC(特別買収目的会社)上場でもなく、伝統的なIPO(新規株式公開)でもなく、Coinbaseは直接上場を選んだ。
直接上場はSPAC上場やIPOとは異なり、上場直後の初値が市場価値を上回ることが少ない傾向がある。つまり、Coinbaseが直接上場を果たすということは、暗号資産の透明性のアピールに繋がるのだ。それに加え、IPOに比べてコストを抑えられるメリットがある。
そんなCoinbaseは、当然のことながらセキュリティ技術への投資を続けている。特に近年は、インド、シンガポール、ブラジルというように、発展途上国を中心に研究開発拠点を設立中だ。そしてその流れで、Unbound Security(イスラエル)の買収発表の際には、優秀なエンジニアが多いとされるイスラエルにも拠点を設立する予定であることを明かした。
なお、Unbound SecurityはYehuda LindllとGuy Peerによって2014年に設立された企業で、両者とも高度な暗号セキュリティを研究開発しているテック系の人材だ。
この買収によりCoinbaseは、暗号セキュリティの最前線で研究開発しているUnbound Securityのチームを獲得でき、それに伴いイスラエルで技術センターを設立することになる。Coinbaseとしても、イスラエルが強力なテクノロジーを保有し、暗号技術の温床であることを強く認識しているようで、Unbound Securityを歓迎できることに強い期待感を抱いているようだ。
買収したことによる世間の反応や変化
これらの買収に関して、ほぼ間違いなくいえることは、金融領域におけるMPC技術の需要は非常に大きいということだ。
ただし、実際に買収を発表したあと、株価に大きな変化は見られていない。今回紹介した3つの例の中だとPayPalとCoinbaseが上場済みだが、PayPalの2021年3月8日(買収発表日)の始値は239.00ドルで、同年3月9日の終値は241.76ドルだ。また、Coinbaseの2021年11月30日の始値は320.75ドルで、同年12月1日の終値は294.0ドルとなっており、いずれも大きな変化がない。
ちなみに現在は暗号通貨バブル崩壊の流れで、両者とも株価を大きく落としており、2022年11月17日の終値で、PayPalは85.64ドル、Coinbaseは48.79ドルとなっている。
また、2021年8月19日、暗号通貨取引所のLiquid(東京)のシンガポール法人QUOINE Pte.が、同社が利用しているウォレットでハッキングの被害を受けたことを発表した。この報道で注目されたのが、MPC技術を用いたウォレットが狙われたことだ。当時はPayPalがCurv、GeminiがShard Xの買収を発表していた時期だったので、本件のハッキングは注目を集める形となった。
この報道に対し、FireblocksのCEOであるMichael Shaulovは「MPCウォレットの柔軟性の高さは、ヒューマンエラーという弱点が入り込む余地につながる。今回の攻撃は、MPCを使ったLiquidのホットウォレット(インターネットに接続されている状態のウォレットのこと)を狙ったものだが、MPCの脆弱性とは無関係と考えている」とコメントした。ちなみに当時のLiquidは、のちにCoinbaseが買収することになるUnbound Securityが提供するMPC技術を使用していたという。
では、MPC技術はWeb3業界に何をもたらすのか?
Web3業界は、実に複雑な構造となっている。特に金融領域に関しては、暗号通貨だけでなく、ステーキング、DeFi、DAO、NFTなどの革新的なアイデアによって指数関数的に成長中だ。そしてそれらと同様に、秘密鍵に対する脅威や、安全に管理するためのセキュリティ手段も複雑になっている。
おそらく、大衆がWeb3に未だにハマり込めない理由の一つに、ハッキングで財産を失う怖さがあると考えられる。そのため、Web3業界としてはセキュリティ技術の成長が急務となっている。そういった状況で見ると、MPC技術は非常に将来性の高い技術だ。
しかし結局のところ、MPC技術がどれだけ優れていても、暗号通貨取引所のシステムに上手に組み込まれていなければ意味がない。先ほど紹介したLiquidが良い例だろう。
だからおそらくPayPal、Gemini、CoinbaseはMPC企業を買収したのだと考えられる。MPC技術の最先端にいるエンジニアを自社に取り込むことで、暗号通貨取引所のセキュリティの合理化を、根本的な部分から進めるつもりなのだ。これは、単純にMPC企業が提供しているサービスを利用したり、提携したりするだけでは実現できない。
だとすると、MPC技術がWeb3業界に「安全」や「信頼」をもたらす未来は、そう遠くないように思える。
まとめ
- PayPalがCurv、GeminiがShard X、CoinbaseがUnbound Securityを買収した
- MPC鍵管理という手法は、Web3の中で注目を集めている
参考文献
PayPal Launches New Service Enabling Users to Buy, Hold and Sell Cryptocurrency
Gemini Enhances Speed and Scale of Asset Listings, Transfers, and Usage With Shard X Acquisition
Coinbase to acquire leading cryptographic security company, Unbound Security